防災の日に寄せて―慶長伏見地震と宇和島―

6月18日の朝、大阪北部で震度6弱を観測する強い地震が発生しました。

この大阪北部地震は、有馬ー高槻断層帯が動いたことによって引き起こされたと考えられています。

この有馬―高槻断層帯が前回動いたのが422年前の文録5年(1596年)。

慶長伏見地震と呼ばれる大地震です。

 

慶長伏見地震は有馬ー高槻断層帯だけでなく六甲ー淡路断層帯も震源となり、2つの断層が動いたため規模が大きい地震となりました。

マグニチュード7.25〜7.75と推定されています。

六甲ー淡路断層帯は平成7年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)を引き起こしたものですから、規模の大きさが分かります。

 

慶長伏見大地震が起きたのは、文録5年7月13日の子の刻(1596年9月5日深夜0時頃)。

山城国伏見(京都市伏見区)付近が震央とされ、死者は1000人を超え、東寺や天龍寺、豊臣秀吉の居城の伏見城天守閣が倒壊するなど大きな被害を出しました。

2年前の大河ドラマ『真田丸』29話でも、この慶長伏見地震の発生が描かれています。

 

この時、その伏見城にいたのが宇和島藩初代藩主の伊達秀宗です。

秀宗は天正19年に伊達政宗の長男(正妻ではなく側室の子)として生まれ、幼名は兵五郎、文録3年には伊達政宗の人質として伏見城へ入ります。

兵五郎は当時、3歳、伏見城で養育されることとなりました。

(この様子も『真田丸』には出てきました)

この地震が起きた文録5年の5月に、豊臣秀吉の猶子(相続を目的としない後見人的な意味を持つ養子)となり、秀吉の秀の字をもらって(偏諱)、秀吉と名乗ります。

慶長伏見地震が起きた年に、私たちがよく知る名前「伊達秀宗」が誕生したのです。

 

国際日本文化研究センターの磯田道史准教授によると、秀吉政権崩壊の引き金となったのがこの慶長伏見地震だそうです。

朝鮮出兵によって国力が疲弊したところに大地震が襲い、伏見城再建を始めとした負担が増大、それが豊臣家と秀吉への不満を募らせ、人々の心が徳川家康へと向かったという説です。

 

伊達秀宗はその「秀」の名のように、豊臣秀吉と深いつながりがあります。

一方で、宇和島藩は豊臣家を滅ぼした大坂の陣の褒賞として秀宗が徳川幕府より与えられたもので、運命の残酷さを感じずにはいられません。

もし、慶長伏見地震が起きず、豊臣政権が崩壊しなければ、伊達政宗は宇和島藩の初代藩主になることもなく、「宇和島伊達家」も「伊達な宇和島」もなかったかもしれません。